エステバンの事件簿 〜怪盗フォティダス編 第110回〜
その闇の中心に、六芒星を象った巨大な空間が存在していた。壁に掛けられた燭台には青白い不気味な炎がゆらめいている。その壁は遥か上方へと伸び、闇の中へその姿を飲み込まれている。氷のような淡い光が床をぼんやりと照らし出している。その部屋の中心に、一人の老人がひれ伏していた。絹で織られた豪華な法衣に身を包んだ白髪の男。イスパニア王宮で権力を振るう枢機卿、タベラであった。
ひれ伏したまま、タベラは動かない。だがその全身はかすかに震えていた。無音の闇の中、正面の暗がりの中にその恐怖の対象は既に存在している。だが、タベラにその姿を確認することはできない。恐怖のあまり顔を上げることができない。しかしたとえ彼が勇気を振り絞って視線を上げたとしても、眼前にはただ不吉な黒い闇が広がるばかりだっただろう。
「…どうなっているのだ?タベラよ。」
重苦しい沈黙を破り、奇妙な金属質めいた声がおどろおどろしく空間に響き渡った。タベラはびくりと身を震わせる。
「お前たちがセビリア湾に集結させた艦艇は実に100隻…。対してフォティダス達はたかだか10隻程度…。半刻(1時間)もあればけりがつく、と豪語したのは貴様だったな?タベラよ。」
タベラは自分の額から冷たい汗が床にこぼれ落ちるのを感じた。両目は冷たい銀色の床を見つめ見開かれたまま瞬きひとつできない。何か言わなければならない。…何かを。
「お…恐れながら、殿下。敵はフォティダス一味ばかりではありませぬ。伝令によれば、あの忌々しいヴィルヘルムめが我等を裏切りフォティダス達に加勢していると…」
「そんな事は知っておる。それに言い訳など聞きとうないわ。我が問うておるのはただひとつ。フォティダスとウナス風味の身柄、いつここへ連れて参るのか、という事のみ…。フォティダスはいまだ見つからず、ウナス風味はあろう事かポルトガルのケレニスめに奪われたというではないか。この失態、どう埋め合わせるつもりなのだ。」
【殿下】の口調に怒りと苛立ちがにじみ出る。タベラは心臓が縮みあがるのを感じた。生きた心地がしないとはこういう事を言うのだろう。いや、これ以上【殿下】の機嫌を損ねれば実際にタベラの命は無いかもしれない。
「い、今しばしのご猶予を!いかなる手段を用いても必ずやあの者どもの身柄を【殿下】の御前に…!」
沈黙が音もなく舞い降りた。死を予感させるのに十分な重圧と冷徹さを兼ね備えた沈黙が。ひれ伏したままタベラは恐怖のあまりそれ以上言葉を継ぐこともできず、ただ黙して【殿下】の次の言葉を待つしかなかった。
「…抜かしたな、タベラよ。その言葉に偽りはあるまいな。」
闇の彼方から響き渡る【殿下】の声が、タベラの心臓を冷たく鷲づかみにする。タベラに発言の内容を選択する余地も余裕もありはしない。できるかどうか、ではない。まずはこの場を生き延びる事だ。
「ち、誓って!」
やっとの事でタベラは喉の奥から言葉をひねり出す。それでもなお、しばらくの間【殿下】が闇の中から自分を凝視している気配を、タベラはひれ伏しながら感じていた。しかし、その気配は徐々に薄らぎ、やがて感じられなくなった。まるでより深い闇の層へ移動したかのように。
タベラは全身の震えが収まるのを待ってから、うつむいたまま静かに立ち上がった。
彼は感じていた。胸に巣食う巨大な空洞のごとき絶望を。
先ほど彼が【殿下】に奏上したとおり、セビリア沖での戦況はまったくもって芳しくない。総司令官だった筈のヴィルヘルムは離反。また仮面教団側についていた有力な将軍のうち、エゼキエルばかりかバルデスまでもがすでに海の藻屑と消え、その他の提督達も次々にある者は戦死、またある者は戦場を離脱していた。
このままでは。タベラの脳裏を「敗北」の二文字が不吉な影とともによぎった。それはすなわち、彼の粛清、抹殺に直結するものである。
なぜだ。負けるはずも無い戦いだったのではなかったか。フォティダスに加担する一味を鎧袖一触に蹴散らし、叩き潰す。そして【殿下】が欲するウナス風味とフォティダスの身を労せず捕らえ、献上できる筈だったというのに。
このままでは…。
立ち上がったタベラの全身を再び震えが襲っていた。強力かつ優秀な海軍を従えているとはいえ、彼自身には戦闘の経験も知識もない。現状を打開する方策は考え付かなかった。かといって、今更逃げ場はない。このままただ座して死を待つか。
「…ならば、いっそ…」
タベラは不気味に低い声でそう呟くと、いずこへともなく立ち去って行った。
深い闇の底。どこまでも深い漆黒だけが存在するその空間に、禍々しい気配が鎮座している。
「タベラめ…口ほどにもない事よ。」
【殿下】の声が苛立たしげにそう呟くと、闇の奥から別の声が聞こえた。
「キシシシ…ご機嫌斜めのご様子ですなあ、殿下?」
【殿下】の気配がゆらめく。どうやら後ろを振り返ったようだ。
「…【シペ・トテック】か。持ち場を離れてこのような場所までやって来るとは、それなりの理由あっての事であろうな?」
【シペ・トテック】は闇の中でうやうやしく頭を下げた、ようだ。
「それはもちろん。例のものですが、完成の目処が立ちましたゆえ、ご報告に上がったのですよ。」
【殿下】は静かに笑った。
「ククク…ようやくか。ずいぶんと時間がかかったものだな。」
「キシシシ…莫大な費用も、でございますがね。フォティダスのおかげでずいぶんと助かりましたよ。あれが盗み出す財宝の数々…その売り上げがなければ、期間はさらに延びていた事でしょうな。」
「ククク…そうだな。そのフォティダスだが、この分ではもうじき王宮へやって来るだろう。どうやら悪運の強い女のようだ。」
「しかし奴が国王に何を言おうと、王妃の身柄を押さえている限り国王は聞く耳持ちますまい。結局フォティダスはただの怪盗のまま。捕らえられ、我らのもとへ送られてくるだけの事…。」
「ククク…そういう事だ。」
【殿下】が冷酷な笑みを浮かべる気配がある。
「フォティダス…いずれ相まみえよう。その時が楽しみでならぬわ…」
闇が静寂をまとう。そして二人の気配も、唐突に消えたのだった。
「しっかし辛気臭い通路だなあ…暗いわ、狭いわ、じめじめしてるわ…フォティダス、お前よくこんなとこ知ってたな?」
先頭を行くフォティダスが持つ松明の光がゆらめく中、後から続くHRRの場違いなほど陽気な声が通路の土壁に反響した。その後ろから従うスツヌフは無言のまま黙々と歩を進める。何か言いたげにHRRの顔を彼が見上げるのと、フォティダスがHRRを振り返るのが同時だった。
「HRR…少しは静かにできないのか。ここは限られた人間しか知らない抜け道とはいえ、どこかに兵が潜んでいるかもしれないのだぞ。」
フォティダスがHRRをたしなめると、スツヌフも同意見とばかりに小さく一声鳴いた。
二人と一頭は先ほどからこの地下通路を進んでいる。天井の高さは人がやっと立てる程度。幅は二人の人間がどうにかすれ違える程度だ。どこから風が入ってきているのか、時折松明の光が大きく揺れる。すると彼らの影もまた化物のように巨大に揺らめいた。
「あぁ…悪い悪い。しかし城に忍び込むのはいいけどよ。俺、一人でここを戻れって言われても絶対迷うぜ。」
HRRは後ろを振り返り、背後に広がる闇に向かってそう言った。通路は何本も入り組んでおり、それぞれの通路がどこへ向かっているのか、どこで繋がっているのかHRRには知る由もない。だがフォティダスは次々に現れる分かれ道を前にしても、迷う様子もなく進むべき道を選びとっていく。フォティダスは敢えて口にはしないが、かつて何度もセビリア王宮に盗みに入った時に行き来していた経験があるからだ。そしてその正しい道順を教えたのは誰あろう、あのタベラであった。
「迷いたくなければその無駄口を閉じて、私の後をついて来る事だ。」
フォティダスは前を向いたままそれだけ言うと、さらに歩を進める。そのペースはいささかも落ちる事がない。
「ちぇ…分かった分かった。しかしフォティダスさあ、せっかくの別嬪がその冷たい言い草で台無しだぜ?やっぱもうちっとさあ…」
唐突にフォティダスの歩みが止まった。
「…しっ!黙れHRR!」
フォティダスが鋭くささやくと、HRRもさすがに口をつぐんで歩を止める。
「な、なん…」
言いかけたHRRの口をフォティダスの空いている手が押さえた。
「…人の気配だ。近づいてくる…」
フォティダスがささやく。HRRは目を剥いた。こんな地下通路をうろついている人間がいるとすれば、まず間違いなくイスパニアの兵隊だろう。
(戻るか?)
HRRが目で尋ねると、フォティダスは考え込んだ。戻っている暇は無いが、ひとまず相手をやり過ごすにはそうするしかないだろう。
すると今度はスツヌフが後ろを振り向き、低く唸り声を上げ始めた。フォティダスもHRRも気づいた。背後からも人の気配が近づいてきている。
「…まずいな…」
フォティダスは眉をしかめた。捕まるわけにはもちろんいかないし、戦闘で無駄な時間を費やしたくない。負傷することは更に望ましくない。だが前後を挟まれた以上、戦闘も覚悟しなければならない。
「こんな時に…。いや、考えてみれば当然か。私がここから忍び込む可能性くらい、事情を知る者たちならば簡単に考え付くだろうからな。」
苦々しげにフォティダスが呟く。
「どうするよフォティダス。戦うなら俺が先に立つぜ。その為の用心棒なんだからな。」
HRRが不敵に笑ってそう言うが、フォティダスは即答しない。やり過ごせるものならそうしたい。フォティダスは付近の地形を思い出そうとしているのだ。
すると。
スツヌフが壁の一点に近づき、においを嗅ぎ回り始めた。HRRは怪訝そうに相棒の顔を見つめる。
「おい、どうしたんだよスツヌフ?」
しかしスツヌフは聞く耳を持たない様子で、その辺りを左右に行きつ戻りつしながら念入りに調べている。まるで熟練された捜査官のように。
やがてスツヌフは顔を上げ、フォティダスに向かって鋭く鳴いた。フォティダスもスツヌフの様子にただならぬものを感じ、彼を見つめ返す。
「…どういう事だ、スツヌフ。ここに何かあるのか。」
スツヌフは我が意を得たりとばかりに再び鋭く小さく鳴く。
フォティダスは静かに土壁に歩み寄り松明の炎を近づけた。すると一瞬、かすかに炎がゆらめいた。もう一度同じ箇所に松明を近づける。やはりかすかに炎が揺らめく。
フォティダスはHRRと視線を交わした。壁の奥から風が流れ出ているのだ。フォティダスは迷わず土壁に手を当て、体重をかけて力いっぱい押し始めた。HRRも横から加勢する。すると、かすかに壁が奥へ動く気配があった。更に二人が壁を押すと、重々しい響きを立てて扉が回転を始めたではないか。土中を掘り進めただけの通路だが、その扉はどうやら石造りであるらしい。土を巧みに塗りこめ、周囲と同じ土壁であるかのように偽装していたのだ。
「スツヌフ、でかしたぜ…とりあえずここに隠れてやり過ごそう。」
HRRがそう言うと、フォティダスも同意した。
「賛成だ。…しかしこんなところに隠し通路があったとはな。いったいどこに通じているのか…」
扉は更に回転し、ようやく人一人が中に入れる程度の隙間が開いた。フォティダス達は迷わず中に入り込み、再び扉を押して元通りに閉じる。静寂が訪れた。
「…ずいぶんとしっかりした造りの通路だな。」
HRRが周囲を見上げながら言った。天井までの高さは先ほどよりもかなり余裕がある。幅も先ほどの通路の倍はありそうだ。壁も床も天井も、しっかりとした石造りの構造である。驚くべき事に、壁には一定感覚で燭台が掛けられ、ぼんやりとした明かりの連なりを作り出しているのだった。
「…こいつはどうにも興味深いねえ。身を隠すだけでさっきの通路に戻るのはもったいない気がしてくるぜ。」
腕組みしてHRRがにやりと笑いながら言うと、フォティダスもうなずいた。
「それに先ほどの通路はおそらく敵兵が巡回している。まずはこの通路がどこへ繋がっているのか、それを調べてみるとしよう。うまく王城の敷地内へ抜けられればしめたものだ。」
スツヌフも短く鳴いて同意する。HRRは相棒の顔を見た。
「しっかしお手柄だったなスツヌフ。どう見てもただの壁だったけどよ、気づいてくれて助かったぜ。おかげで敵に見つからずに済んだってわけだ。」
だがスツヌフは目を閉じて横を向く。HRRにはつれない素振りが目立つようだ。しかしHRRは別段気にした様子もない。調子の良い発言が目立つHRRだが、そんな彼に対してはこのくらい冷めた態度で付き合うのがちょうど良いのかも知れない。
石造りの通路は途中で何度か折れ曲がりながらも、一本道のまま奥へ奥へと延びていく。壁に一定間隔を置いて燭台が掛けられているのは相変わらずだ。フォティダス達は足音が響かぬよう慎重に進んでいく。次の曲がり角からいつ敵兵が現れてもおかしくない状況だ。さすがのHRRも軽口を慎む気になったようだ。
そして。
「(…止まれ。)」
先頭を行くフォティダスが曲がり角で突如立ち止まり、用心深く奥の様子をうかがいながら、後ろに続くHRRとスツヌフを左手で制した。
「(…どうした?フォティダス。)」
HRRがさりげなくフォティダスの至近距離に近づいてささやく。フォティダスは左手で容赦なくHRRの顔を押し戻しながら答えた。
「(…どうやら終点のようだ。見てみろ。)」
物陰からHRRがそっと顔をのぞかせる。折れ曲がった通路は奥へ向かって直線状に延び、その終点には人間の背丈をゆうに凌ぐ高さの重々しい両開きの鉄扉が、フォティダス達を待ち構えるかのようにいかめしくそびえ立っている。扉の向こうは重要な場所である事に間違いないようだが、門番らしき人影は見当たらない。
「(…誰もいないってのは妙だな。)」
頭を引っ込めたHRRが珍しく神妙な表情で考え込む。
「(罠かもしれない。だが…)」
フォティダスは言いながら背後に視線を走らせる。
「(引き返している時間も惜しい。まずは調べてみよう。)」
HRRが止める暇もなく、フォティダスは足音ひとつたてずに通路へ低い姿勢のまま躍り出た。そのまま夜風のように涼やかな身のこなしであっという間に鉄扉の前へとたどり着く。依然として周囲に敵の気配は感じられない。HRRは両肩をすくめた。
「即断即決、大胆不敵、ってかい。まったくたいした女だぜ。あらためて惚れ直…」
その時だった。スツヌフがフォティダスの背中に向かって激しく吠えたて始めた。鉄扉を調べようと接近していたフォティダスはその声に思わず振り向く。
「スツヌフ、どうした?」
だがスツヌフの視線はフォティダスを通り越し、鉄扉をじっと睨み付けるばかりだ。…いや、鉄扉の向こう側を凝視しているようにも思える。そんなスツヌフの様子を見つめていたHRRの表情が次第に険しくなる。
「…フォティダス!扉から離れろ!」
HRRが目線をフォティダスに向けて叫ぶ。フォティダスも只ならぬ気配を感じ取ったか、とっさに鉄扉から跳びすさった。
と同時に、鉄扉が重々しい音をたてて両側へ開き始めた。扉の内側からは、重々しく不気味な殺気の渦が吹き出してくる。それはフォティダス、HRR、スツヌフを瞬く間に捕らえ、肺から体内に入り込んで臓腑を震えさせるかと思わせるほどのものだった。
「この気配は…!?」
「フォティダス!何かいるぞ、一旦こっちに戻れ!」
HRRは叫びながら物陰から飛び出した。スツヌフが後に続く。フォティダスはしかし、その場から動かない。恐怖のためではない。今、鉄扉の奥の闇に背後を見せる事は危険と判断したためだった。
「…気をつけろ二人とも。この気配、人間のものではない…!」
油断のない体勢で腰の長剣を静かに引き抜きながら、フォティダスはHRRとスツヌフに注意を促した。その言葉を肯定するかのように、扉の奥から極度に低い唸り声が聞こえてきた。それは敵を威嚇する獅子のものにも似ている。さらに、床を踏み鳴らす重々しい足音が聞こえ始めた。ゆっくりと、だが確実に、こちらへ向かってくる。
「ちっ…門番の代わりに、猛獣でも飼ってやがるようだぜ…!」
徒手空拳のHRRは両脚を肩の幅まで開き両の拳を互いに打ちつけた。その隣でスツヌフがいつでも敵に飛びかかれる姿勢をとり、鋭い目で牙をむき出しながら威嚇の声を上げる。
扉の奥の闇に光点が灯る。赤い危険な光が二つ並んでフォティダス達を見据えている。禍々しいその光は、明らかに血を、そして獲物の命を欲している。
地響きのような足音を立てて、敵が扉の外へその姿を現した。獰猛さと威厳を兼ね備えた風貌。太くがっしりとした四肢。隆々と筋肉が盛り上がった胸、肩、腰。特徴的なのは、頭から首筋にかけて生い茂った長い茶色のたてがみである。だがその顔はよく見えない。鋼鉄で作られた巨大な仮面が額から口の上あたりまでをすっぽりと覆い隠しているからだ。両目と口の部分だけが仮面の拘束を逃れ、開かれた大きな口からはナイフのように鋭利な牙が何本ものぞいている。
その生き物は仮面の奥からフォティダス達を睨み下ろすと、雷鳴のような雄たけびを上げた。
「な、なんだよこいつは!?」
HRRが両目を剥き、思わず二歩三歩と後ずさった。
「これは…獅子か!?だがそれにしても大きすぎる!」
フォティダスも剣を構えたまま慎重に距離をとる。
扉の中から現れたのは仮面を着けた巨大な獅子…ライオンだった。かつてフォティダスはアフリカ沿岸を旅していた頃、人間により捕らえられ檻に入れられた獅子を目にしたことがある。
だがこの獅子の体躯の大きさは規格外だ。体高はHRRの倍近くもある。フォティダス達は完全に獅子を見上げる形である。
「それにしても、仮面とはな…お前の飼い主の正体、おおよそ見当がつくというものだ。」
フォティダスは薄い笑いを唇の端に浮かべて呟いた。ここはセビリア王城の地下深く。そこに仮面を着けて現れるとなれば、おそらくこの獅子は仮面教団が差し向けた門番なのだろう。
獅子は喉の奥から低い唸り声を上げながら、眼下で自分と相対する三匹の獲物を順繰りに見下ろす。その態度には悠然とした王者の風格が感じられる。
その視線がHRRの視線と交錯し、止まった。HRRの背筋を冷たいものが流れ落ちる。
「…え?お、おいおい、冗談でしょ?」
引きつった笑いを浮かべてHRRが呟くが早いか、獅子の前脚が信じられぬ速度で横殴りにHRRめがけて襲い掛かった。
「うおおお!?」
間一髪、HRRがのけぞりながらその一撃をかわすと、獅子の前脚は勢い余って床に激突した。堅固な石造りの床はいとも簡単に砕け散り、大小の小石が破片となって飛び散った。
「し、洒落になってねえぞこりゃあ!」
HRRは体勢を立て直し、慌てて獅子の右側へと回り込む。逃がさじとばかりに獅子は体の向きを変え、逃げるHRRに向けて再び殴りかかった。HRRは全力で駆けながら背中越しにその攻撃を必死にかわす。またしても床が砕け散る。
この時、もっとも勇敢な戦士だったのはスツヌフだった。体勢を低くしたままHRRの反対側から獅子に忍び寄るや、巨大な相手目がけて鋭い牙を剥き飛びかかったのである。
だが獅子は視界の隅にスツヌフの姿を捉えるや、うるさそうに左前脚を振り払った。スツヌフの胴体とほぼ同じ太さの獅子の前脚が確実にスツヌフの体を捉え、スツヌフは悲鳴を上げて壁目がけ跳ね飛ばされた。
「す、スツヌフッ!?」
HRRは相棒の悲鳴を聞くや思わずスツヌフ目がけて駆け出した。だがフォティダスは冷静だった。剣を手にして獅子の背後から巧みに回りこもうと試みる。
跳ね飛ばされたと見えたスツヌフは空中で宙返りしながら体勢を立て直し、激突するかに見えた壁面を蹴って空中から再度、獅子の頭上へ襲い掛かった。同時にフォティダスも剣を振るって獅子の脚を狙う。獅子は苛立たしげに咆哮しつつ、体を屈めて前方へ飛び出した。フォティダスの剣は空を斬ったがしかし、スツヌフは獅子の背面に喰らいついた。牙を容赦なく獅子の背中に突き立てる。獅子は苦痛の叫びをあげたが、すぐさまスツヌフを振り落とそうと巨大な体躯を左右へ揺さぶり始めた。地響きとともに土煙がもうもうと上がる。しかしスツヌフは四本の脚を精一杯広げ爪を突き立て、必死に獅子の背中にしがみつく。
「でかしたぞスツヌフ!」
その隙をフォティダスが突いた。背中のスツヌフにすっかり注意を奪われた獅子の死角に回りこみ、その後ろ脚に剣を振るった。紅い鮮血がほとばしり、腱を断ち切られた獅子ががくりと膝をつく。重い地響きが起こり、獅子の動きが止まった。自由が利かなくなった自らの脚を不思議そうな表情で見つめる。もはや戦おうにも後ろ脚の一本が言うことを聞かなくなったのだ。獅子は忌々しさと無念さがないまぜになった雄たけびを弱弱しく上げるばかりとなった。敗北を悟った獅子はそれ以上無駄な戦いを望まなかった。首を垂れ、その場に力なく座り込んだまま動かなくなったのである。
すると獅子の正面に立ちはだかる人影があった。
「へっへっへ…どうやらここまでのようだな?まあ俺たちにかかればこんなもんだ。このままおとなしくしてるって言うなら、命だけは助けてやるぜ。」
得意げな表情で腕組みしながら獅子を見上げてそう言ったのは、HRRである。すっかりおとなしくなった獅子の背中からひらりと飛び降りたスツヌフは、実に何か言いたげな表情でHRRを睨んでいるがHRRは気にも止めない。
「まったく…とんだ用心棒もいたものだ。」
ため息交じりの苦笑を浮かべつつ、フォティダスも剣を収めながらHRRたちの傍へやって来た。HRRはにやりと笑ってフォティダスを迎える。
「どうよ。俺たちを連れてきて正解だっただろ?」
フォティダスはすげなく答えた。
「そうだな。少なくともスツヌフのことは当てにしている。」
思わずよろめきながらHRRが何か言い返そうとしたとき。スツヌフが注意を促すように一声吠えた。フォティダスとHRRは思わずスツヌフを見る。行儀よく座り耳を前方へ立てたスツヌフは、獅子が出てきた門のさらに奥深くを見据えている。その視線をたどると、開かれた巨大な鉄扉の物陰から、フォティダス達の様子をうかがっている人影が見えた。
「…誰だ?」
獅子を操っていた仮面教団の一員だろうか。フォティダスが誰何(すいか)の声を上げたのは無理もなかった。だが人影は、決して険しくないその声におびえたのか、びくりと震えて鉄扉の影に隠れてしまう。フォティダスはHRRと顔を見合わせた。どうにも危険な雰囲気が感じられない。
目を凝らせば、松明の明かりに浮かび上がったものがある。鉄扉の陰に隠しきれなかった、スカートらしき衣服の裾。この場にはあまりにも似つかわしくないものだ。
剣を鞘に収めながらフォティダスが静かに言った。
「私が行こう。」
するとHRRが不思議そうに問い返した。
「何で俺じゃダメなんだ?」
フォティダスは小さく吐息をついた。スツヌフも肩を落として情けないといった風情の声を上げる。
「…私が行ったほうが、色々と効率よく事が進むと思うからだ。」
かなり穏便に表現を修正された言葉が、フォティダスの口から発せられた。だがその為にHRRにはフォティダスの思いが今ひとつ伝わらなかったようだ。
「…ふーん。ま、よく分からねえが、そんなら任せるぜ。」
頭の後ろで両手を組み、HRRは気を悪くした様子もなくそう答えた。フォティダスはHRRの横を通り抜け、鉄扉の方へとゆっくり歩いていく。
だがHRRの目はしっかりと捉えていたのだ。鉄扉の陰に隠れたスカートの裾を。それはすなわち、隠れている人物が女性である事を如実に物語っている。HRRの両目がぎらりと光った。
「…なんつってな!」
獅子と戦っていた時の動きはいまひとつだったが、この時のHRRの素早さには目を見張るものがあった。なんといってもあのフォティダスが、声をかける暇さえ無かったのである。疾風のごとくHRRは走った。フォティダスを一瞬にして置き去りにし、見る間に鉄扉までたどり着いたのである。
「さあ〜てレディ…恥ずかしがらず、俺にすべてを任せてみなよ!」
HRRはそう叫びながら、ためらいもなく鉄扉の内側に飛び込んだ。そこに待っていたのは…
「うぼああああああああああああああああ!?」
「おわああああああああああああああああ!?」
突如、素っ頓狂な叫び声が地下の空間を揺るがした。突然HRRが飛び込んできてよほど驚いたのか、金切り声というよりは魂の絶叫とでも表現した方がいいような叫び声だった。それは無論、隠れていた女性が発したものだったのだが、HRRもあまりの事に思わず釣られる形で叫び返していた。HRRは驚きのあまり後ろによろめいてその場に尻餅をつき、声を上げた女性は脱兎のごとく闇の奥へと駆け去ってしまう。
「あ!ち、ちょっと、レディ!」
様子をうかがっていたフォティダスは思わず眉間に深い皺を一本刻み、深いため息をついた。
「…だから言ったのだ。まったくあいつは…。」
後ろからフォティダスについて来ていたスツヌフも、申し訳なさそうにうなだれて一声鳴いた。フォティダスは苦笑してスツヌフを振り返る。
「ふっ…相棒があれでは、お前も苦労するな。」
スツヌフは何やら諦めたような表情でフォティダスを見上げるのだった。
「おいおい、何もたもたしてんだよ!こっち来てみろって!」
そんなフォティダスとスツヌフの会話を知る由もないHRRが、鉄扉の前に立って二人を手招きして呼んでいる。だがフォティダスはその場に立ち止まり、かすかに両目を細めてHRRを睨んだ。薄闇の中、壁に掛けられた蝋燭の明かりに浮かび上がる彼女の表情は、それでもなお妖しげなまでに美しい。
「HRR、やはり私が行く。お前が出てくると話がややこしくなるばかりだ。お前はここに残れ。」
しかしHRRは首を縦には振らなかった。
「へっへ、そうはいかねえな。俺はあんたの用心棒だぜ?さっきの奴がどんな相手か、この奥に何が待ち受けているのか、危険な要素がいくつもある。そんな中に、フォティダス、あんた一人で行かせるわけにはいかないさ。」
言っている事はもっともらしいが、その魂胆はフォティダスにも見え透いている。
「呆れた男だ。お前は結局、先ほど逃げ失せた女の顔を一目拝みたいだけなのだろう?」
HRRは両目を見開き、一歩後ずさった。
「…そ、そんなわけないだろ?」
だが、二の句が継げない。フォティダスは軽い頭痛を感じつつ、首を横に何度か振った。
「もういい、分かった。一緒に来い。だが先ほどのような軽はずみな行動は、厳に謹んでもらうぞ。」
するとHRRは喜色を満面に浮かべ、すり寄るようにフォティダスのそばへやって来た。
「いやあ〜、さすがフォティダス!話が分かるぜ!まあ任せといてくれよ。またあの獅子みたいなのが出たら、今度こそ俺が一発でのしてやるからさ。」
フォティダスはHRRの言葉には耳を貸さず、ゆっくりと開け放たれたままの鉄扉をくぐる。闇に目が慣れてくると、どうやら少し行った奥にまた扉があるようだ。今度は巨大な両開きの鉄扉ではない。人一人が出入りするのにちょうどよい大きさの扉だ。先ほどの女性はこの扉の奥へ逃げ込んだと見て間違いあるまい。フォティダスは慎重に扉へ近寄り、手で触れて調べ始めた。だが特に異常は見つけられない。どうやら鍵すら掛かっていないようだ。フォティダスはHRRとスツヌフを振り返った。スツヌフは心得てすぐさま扉の脇に身を隠す。HRRも慌ててそれにならった。扉を開けたらすぐに飛び込めるよう体勢を整えたのだ。
フォティダスは頷き、次の瞬間、ドアノブに手を掛けて勢いよく引き開けた。すぐさまスツヌフが部屋の中に駆け込み、HRRがそれに続いた。フォティダスも長剣を引き抜いてそれに続く。
だが、部屋の中では思わぬ事が待ち受けていたのである。
続
テーマ:大航海時代Online
ジャンル:オンラインゲーム






